2009年07月03日

2007年末の人口は1858万人

2007年末の人口は1858万人、この内上海市戸籍を持つ人が1378.86万人(820万人が都心部に住む)、上海市居住証、暫住証を持つの中国人と香港、マカオ、台湾以外の外国人(10万人以上)が479万人。それ以外の出稼ぎ労働者(いわゆる"民工")が660万人以上。合わせて総人口は2500万人。

過去30年で毎年30万人ずつ増加しているものの増加分のほとんどが無戸籍人口で、戸籍人口では中国国内で唯一マイナス成長の地域となっており、1993から連続15年戸籍人口が減っている。2007年に生まれた子供が10.08万人、出生率7.34%、死亡人口10.22万人、死亡率7.44%、人口自然成長率が-0.1%。2007年の男性平均寿命78.87歳、女性平均寿命83.29歳、戸籍人口平均寿命81.08歳。2007年には60歳以上の高齢者の人口比率が20.8%になる。百歳以上の老人が758名、最高齢者が109歳。現在上海市家庭総数の61.06%に当たる305万世帯が一人っ子家庭である。高齢化と少子化問題は市政府に対して大きな課題となっている。近年中国の優秀人材に上海の戸籍を発給(いわゆる"新上海人")したり、上海人に二人の子を産む許可を出すなどの人口政策を打ち出している。英語の上達秘伝!
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上海の原住民は松江あたりにまず居住。元の時代には上海県ができた。 1840年のアヘン戦争以後経済が急速に発展し、近隣の地方から次々に移民が入ってきた。現在の上海人の8割以上は北の江蘇省と南の浙江省からの移民である。 特に江蘇省揚子江(長江)の南部と浙江省北部の江南地方からの出身者が上海人の半分以上を占める。従ってこれが、上海の文化にも大きな影響を与えている。上海語は寧波語、蘇州語と上海本地語の集合である。商売にうまい江蘇人と政治に敏感な浙江人が近代上海の歴史を作ってきた。

2009年06月13日

自然の乳酸菌を用いる場合もあるが多くの酒では

自然の乳酸菌を用いる場合もあるが、多くの酒では添加する。酵母と同じように、日本醸造協会の「醸造用乳酸」もある。乳酸菌によって生産される乳酸は、他の雑菌が繁殖しないようにするために、とくに仕込みの初期に重要である。また、乳酸を始めとする酸が、酒に“腰”を与える。もし酸が全くなければ、酒はただ甘いだけのアルコール液になってしまう。酒造りでは、ほどよく酸を出すことも重要である。

その他 [編集]
正式には副原料に区分されるもの。

〈ラベルに表示される項目〉

醸造アルコール - すっきりした味わいにするため、あるいは香りを残すためにもろみに加えられる。単に増量のために加えられることもある(三増酒)。加えられたものはアル添酒と呼ばれる。
糖類 - 酒に甘味を付け加える。また、糖化液として加えられ、それを発酵させる場合もある。
アミノ酸 - 酒に旨みを付け加える。
調味料 - 酒に旨みを付け加える。
酸味料 - 酒に酸味を付け加える。
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商社
フェンシング
アパレル
映画祭
肝炎
お化け屋敷

<ラベルに表示されない項目>

酵素剤 - 麹菌が造る「酵素」を補うためなどに「酵素剤」を使用することがある。原料重量の 1,000分の1 以下の場合、原料として扱われない。
活性炭 - 酒の雑味を取る。使いすぎると酒自体の味が薄くなる。
清澄剤
ろ過助剤

日本酒の製法 [編集]
日本酒はビールやワインとおなじく醸造酒に分類され、原料を発酵させてアルコールを得る。しかし、日本酒やビールはワインと違い、原料に糖分を含まないため、糖化という過程が必要である。ビールの場合は、完全に麦汁を糖化させた後に発酵させるが、日本酒は糖化と発酵を並行して行う工程があることが大きな特徴である。並行複発酵と呼ばれるこの日本酒独特の醸造方法が、他の醸造酒に比べて高いアルコール度数を得ることができる要因になっている。

日本酒は、次の過程を経て醸造される。

精米 [編集]
玄米から糠・胚芽を取り除き、あわせて胚乳を削る。削られた割合は精米歩合によって表わされる。

米に含まれる蛋白質・脂肪は、米粒の外側に多く存在する。醸造の過程において、蛋白質・脂肪は雑味の原因となるため、米が砕けないよう慎重に削り落とされ、それにより洗練された味を引き出すことができる。その反面、精米歩合が高くなればなるほど米の品種の個性が生かしにくくなり、発酵を促すミネラル分やビタミン類も失われるので、後の工程での高度な技術が要求されることになる。

精米の速度が速すぎると、米が熱をもって変質したり、砕けて使い物にならなくなるので、細心の注意をもってゆっくり行なわなくてはならない。吟醸、大吟醸となると、削りこむ部分が大きいだけでなく、そのぶん対象物が小さくなって神経も使うので、精米に要する時間は丸二日を超えることもある。

1930年(昭和5年)ごろ以降は縦型精米機の出現により、より高度で迅速な精米作業が可能になり、ひいてはのちの吟醸酒の大量生産を可能にした(参照:吟醸酒の誕生)。最近ではこの縦型精米機をコンピュータで制御して精米している大メーカーもある。

放冷・枯らし [編集]
精米後の白米、分け後の酒母、出麹後の麹を次の工程で使用されるまで放置すること。

精米された米はかなりの摩擦熱を帯びている。精米歩合が高く、精米時間が長ければ長いほど、帯びる熱量も大きくなる。そのままでは次の工程へ進むには米の質が安定していない(杜氏や蔵人の言葉では「米がおちついていない」)ため、袋に入れて倉庫のなかでしばらく冷ますことになる。また、摩擦熱によって蒸発した水分を元に戻す。 これを放冷(ほうれい)、また杜氏・蔵人の言葉では枯らし(からし)という。「しばらく」と言っても数時間単位で済む作業ではなく、摩擦熱が放散しきって完全に米が落ち着くまで通常3週間から4週間はかかる。

洗米 [編集]
精米された米は、精米の過程で表面に付いた糠・米くずを徹底的に除去される。これが洗米(せんまい)である。

普通酒を造る米などは、機械で一度に大量に洗米される。他方、高級酒を造る米は、手作業でおよそ10kgぐらいずつ、5℃前後の冷水で、流れる水圧を利用して少しずつ洗われる。洗っている間にも米は必要な水分を吸収しはじめており、「第二の精米作業」と言われるほどに、細心の注意を払う工程である。こうして洗われた米は浸漬へ回される。

浸漬 [編集]
洗米された米は、水につけられ、水分を吸わされる。これを浸漬(しんせき、若しくはしんし)という。

浸漬は、のちのち蒸しあがった米にムラができないように、米の粒全般に水分を行き渡らせるために施される工程である。水が、米粒の外側から、中心部の心白(杜氏蔵人言葉では「目んたま」)と呼ばれるデンプン質の多い部分へ浸透していくと、米粒が文字通り透き通ってくる。米の搗(つ)き方、その日の天候、気温、湿度、水温などさまざまな条件によって、浸漬に必要な時間は精緻に異なる。冬の厳寒のさなかの手仕事である。

このとき、米にどれだけ水を吸わせるかによって、できあがりの酒の味が著しく違ってくる。米の品種や、目指す酒質によって、浸漬時間も数分から数時間と幅広い。精米歩合が高い米ほど、その違いが大きく結果を左右するので、高級酒の場合はストップウォッチを使って秒単位まで厳密に浸漬時間を管理する。米は水からあげた後もしばらく吸水しつづけるので、その時間も計算に入れた上で浸漬時間は判断される。

なお、できあがりの酒質のコンセプトによっては、意図的に途中で水から上げるなど、ある一定の時間だけ米に吸水させる。これを限定吸水(げんていきゅうすい)という。

蒸し [編集]
浸漬を経た米は広げて、湿度を保たせる。このあいだも米は水分を吸収し続ける。

その後、麹の酵素が米のデンプンを分解しやすくさせるために、米を蒸す。この工程を正式には蒸きょう(じょうきょう:「きょう」は「食へんに強」)、もしくは杜氏蔵人言葉で蒸しという。普通酒などでは自動蒸米機(じどうじょうまいき)という機械で、高級酒などでは和釜に載せた甑(こしき)という大きな蒸籠(せいろ)に移して、約1時間ほど乾燥蒸気で蒸す。

蒸しあがった米は、「外硬内軟」といって、外側がパサパサとしていて内側が柔らかいのがよいとされている。外側が溶けていると、コウジカビの定着の前に腐敗が始まる恐れがあり、また、内側に芯が残っていると、米で一番良質のデンプン質を含んだ部分が、糖化・発酵しない可能性があるからである。

なお、和釜から甑を外すことを甑倒し(こしきだおし)という。それは単に蒸しの作業が終わることだけでなく、杜氏や蔵人たちにとっては気の抜けない酒造りの季節が終わり、ほっと一息つく日の到来をも意味する。

2009年06月09日

ワクチン(ドイツ語: Vakzin、英語: vaccine)は

ワクチン(ドイツ語: Vakzin、英語: vaccine)はヒトなどの動物に接種して感染症の予防に用いる医薬品。毒性を無くしたか、あるいは弱めた病原体から作られ、弱い病原体を注入することで体内に抗体を作り、以後感染症にかかりにくくする。弱いとはいえ病原体を接種するため、まれに体調が崩れることがある。

接種方法としては皮下注射、筋肉内注射が多いが、経口生ポリオワクチン(OPV)のように直接飲む(経口ワクチン)ものやBCGのようなスタンプ式のもの、変則的接種方法として、皮内注射などもある。

ワクチンを発見したのはイギリスの医学者、エドワード・ジェンナー。牛痘にかかった人間は天然痘にかからなくなる(またはかかっても症状が軽い)事を発見し、これにより天然痘ワクチンを作った。名前の由来はラテン語の「Vacca」(雌牛の意)から。その後、ルイ・パスツールが病原体の培養を通じてこれを弱毒化すれば、その接種によって免疫が作られると理論的裏付けを与え、応用の道を開いたことによって、さまざまな感染症に対するワクチンが作られるようになった。
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ワクチンは大きく生ワクチンと不活化ワクチンに分かれる。

毒性を弱めた微生物やウイルスを使用。液性免疫のみならず細胞免疫も獲得できるため、一般に不活化ワクチンに比べて獲得免疫力が強く免疫持続期間も長い。しかし生きている病原体を使うため、ワクチン株の感染による副反応を発現する可能性もある。

BCG
経口生ポリオワクチン
痘苗(天然痘)?現在は、主に軍用
麻疹ワクチン
風疹ワクチン
麻疹・風疹混合ワクチン
流行性耳下腺炎(おたふく)ワクチン
水痘ワクチン
黄熱ワクチン
日本未承認(個人輸入を取り扱っている医療機関で接種)

点鼻投与型インフルエンザワクチン(針を使用しないのと、粘膜免疫ができるため、有用である)
ロタウイルスワクチン
帯状疱疹ワクチン 単純疱疹ワクチンは開発中
新三種混合ワクチン(麻疹・風疹・おたふく。旧来日本でも行われていたMMR三種混合ワクチンの改良型)
その他、混合ワクチン

MMRV=麻疹・風疹・おたふく・水痘(日本未承認)

2009年04月25日

コーンスタンティーノポリス

日本語では、一般的に英語名 Constantinople の音訳である「コンスタンティノープル」がよく用いられているが、古典ラテン語では「コーンスタンティーノポリス」、古典ギリシア語では「コーンスタンティヌーポリス」、中世ギリシア語及びそれを受け継ぐ近現代ギリシア文語(カサレヴサ)では「コンスタンディヌポリス」、現代ギリシア語(ディモティキ)では「コンスタンディヌーポリ(コンスタンディヌポリ)」と表記・呼称される。

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哲学・思想学の分野でギリシア語文献を日本語訳する際などは、ギリシア語ではなくラテン語の「コンスタンティノポリス」が使用されることが多い。ロシア語などのスラヴ系の史料では「皇帝の街」を意味する「ツァーリグラード」という呼び名も使われている。漢字では「君府」という当て字も用いられる。

ビュザンティオンは、古代ギリシアの植民都市に起源を持ち、古来よりアジアとヨーロッパを結ぶ東西交易ルートの要衝であり、また天然の良港である金角湾を擁していた。コンスタンティヌス1世は、リキニウスとの内戦の中で324年にビュザンティオンを攻略すると、この地に着目し、都市計画を一新して「コンスタンティノポリス」を建設した。開都式は330年5月11日に行われた。この当時、コンスタンティノープルはローマ帝国の一地方都市の域を出ていなかった。コンスタンティヌス1世がローマに代わる「新しいローマ」を建設したという考えは、当時は存在しなかったようである[1]。市域もビュザンティオン時代と比べれば大幅に拡大されたが、後代より狭かった。コンスタンティヌスの後継の皇帝達もこの街に常住したわけではなかった。

治世の多くをこの街で過ごした最初の皇帝はテオドシウス1世である。テオドシウス1世の死後、ローマ帝国の東西分裂が定着すると、コンスタンティノープルは東ローマ帝国の首都となった。410年、ローマが西ゴート人により掠奪を受け、帝国の東方でもフン族がドナウ川の北に迫っていた。防衛体制を強化するため、テオドシウス2世は現在も残っている難攻不落の「テオドシウスの城壁」を建設し、413年に完成した。以後ローマが急速に衰退していったのに対して、コンスタンティノープルの人口は増加し続けた。市内には、宮殿やハギア・ソフィア大聖堂を始めとする教会、大浴場や劇場といった公共施設が数多く作られた。西ローマ帝国が滅亡した476年頃になると、東ローマ帝国の人々には「コンスタンティノープルは第2のローマ」という意識が芽生えていった。

6世紀には、毎年5月11日の開都祭が帝国の重要な記念日として盛大に行われるようになり、「コンスタンティヌスが新しいローマを建設した」という意識が定着した。時の皇帝ユスティニアヌス1世のもとで、東ローマ帝国は最初の隆盛を迎え、コンスタンティノープルは世界最大の大都市[2]として繁栄した。市民にはパンが無料で支給されるいっぽう、競馬場では戦車競走が連日開催され市民はそれに熱狂していた。古代ローマにおける「パンとサーカス」はこの時代でも帝国の東方では維持されていたのである。

暗黒時代から再興へ(7世紀?8世紀)
ユスティニアヌス1世の死後、東ローマ帝国は急速に衰退し、領土は縮小していった。7世紀になるとサーサーン朝、次いでイスラム帝国によってシリア、エジプトなどの穀倉地帯を奪われ、皇帝ヘラクレイオスはコンスタンティノープル市民へのパンの支給を廃止した。674年から678年にはコンスタンティノープルはイスラムの海軍によって毎年包囲された。この際は秘密兵器であるギリシアの火を用いてイスラム海軍を撃退することに成功したが、相次ぐ戦乱などから市民の人口も激減し、水道や大浴場といった公共施設は打ち棄てられ、市内には空き地が目立つようになった。

717年から718年にはイスラム帝国の大遠征軍がコンスタンティノープルを包囲したが、皇帝レオーン3世によってイスラム軍は撃退された。徐々に東ローマ帝国が国力を回復させていくと、コンスタンティノープルにも再び活気が戻ってきた。766年には人口増加に対応するために水道が修復された。コンスタンティノープルは戦車競走に熱狂していた古代の市民に代わって、絹織物や貴金属工芸などの職人や東西貿易に従事する商人などが住む商工業都市として甦ったのである。

2009年04月08日

セクシャルバイオレットNo.1

『セクシャルバイオレットNo.1』(-ナンバーワン)は、桑名正博のヒット曲。1979年7月21日にRVC(現在はBMG JAPANに吸収)から発売。

解説 [編集]
ファニーカンパニーのフロントマンとしてデビューしたものの、芽が出ないままソロ歌手として再デビューした桑名正博の代表曲。
1979年にカネボウのキャンペーンCMソングとして発売され、この後1980年代に入ってもヒットメーカーとして名を馳せる事となる、作詞・松本隆、作曲・筒美京平のコンビでA・B面共に製作された。
当時化粧品のCMソングに起用された楽曲はどれもヒットする状況下にあり、本作もそれまで『サード・レディー』のスマッシュヒットに留まっていた桑名を一躍有名にするほどのヒットを記録し、オリコンチャートでも3週に渡り1位を記録した。
しかし、桑名は本作以降目立ったヒット曲が出ず、現在では一発屋の扱いを受けることが多い。セールスとしても後世に残るほどの大ヒットには至っていないが、何よりインパクトのあるタイトルと、歌謡曲やニューミュージックのジャンルに当てはまらない曲調は印象的であり、現在でも本人が音楽番組で往年のヒット曲として歌唱することも度々ある。
なお、オリコンチャートでは本作の前にさだまさしの『関白宣言』が1位を獲得しており、本作の次にはさだの『親父の一番長い日』が1位になっている。本作は『関白宣言』の前に3週連続で2位に甘んじており、その後1位を獲得した経緯がある。本作が1位になっている間も『関白宣言』が2位をキープし、本作が3週連続1位になった週は2位と3位にさだの2作がチャートインしていた。そのため、本作によってさだまさしの"同一歌手による別作品での連続チャート1位"を防いだことになる(当時シングルチャートでは藤圭子とピンク・レディーのみしか達成していない記録であった)。
2007年に、シャ乱Qのつんく♂が筒美京平作品のトリビュートアルバム「the popular music」にてカバー。

収録曲 [編集]
セクシャルバイオレットNo.1
(作詞:松本隆 作曲:筒美京平 編曲:桑名正博 & TEAR DROPS、戸塚修)
You're my baby
(作詞:松本隆 作曲:筒美京平 編曲:桑名正博 & TEAR DROPS、戸塚修)

ランド ドトラスト ジャム ガザニア マンホー ヒナガ ピンワ サテン ナスダック マクロ フォト ソンロ フラノ ロゴン もせう リアージ トポグ ロフィー ガスタン ぜんだな イコール ミサ全国 ジャンプ ハロー ロスジ ウィジ おおつち リヨン ビスタ ドッグ フォーカス トトカル トギザ ダリ タオル ッドカード ドーピ ダブル ライオ モブログ スノー くしろ エンド スノース バヌアツ ビラリー バスルガ チュリエ テーマソン リンド

2009年03月24日

名鉄モ700形電車

名鉄モ700形電車(めいてつモ700がたでんしゃ)とは、名古屋鉄道の前身の一つである(旧)名古屋鉄道(→名岐鉄道)が1927年に製造した電車である。

デセホ700形として、1927年に日本車輌製造が701 - 710の10両を製造した。同社初の半鋼製車両で、リベットを多くつけた丸屋根を持つ両運転台の3扉を備えた小型車両である。連結器は当初密着連結器であったが、すぐ他系列との連結を行えるよう自動連結器に交換された。なお後に一部の車両で片側の運転台が取り外されたが、貫通扉と幌は取り付けられなかった。

現・名古屋鉄道の前身の一つとなる名古屋電気鉄道は、元々名古屋市における路面電車を運営していた会社であり、それが「郡部線」(郊外路線)として現在の名古屋本線の一部や津島線・犬山線などを建設した。その後、郊外線部門は新設会社「名古屋鉄道」へ、市内線部門は名古屋市電に譲渡し解散した。

その名残で、名古屋鉄道は名古屋市北外れの押切町駅の他に、名鉄が市電に乗り入れる形で名古屋駅から少し離れた当時の市中心部に位置する柳橋駅をターミナル駅としていた。そのため、デセホ700形の集電装置は郊外線用のパンタグラフと、市電区間用のポールを両方備えることになった。

製造まもない11月には、昭和天皇の犬山への陸軍特別大演習視察に伴うお召し列車用として、707・708の2両が抜擢された。両車はこのお召し列車用に特別製作された木造電動貴賓車「SC3」をトレーラーとして中間に挟み込み、動力車・控車としての役目を果たした。天皇が一地方の私鉄を、更には「電車」のお召し列車に乗車したのはこれが最初とされている(昭和天皇本人は皇太子時代に、当時名古屋電気鉄道であった市内線に乗車している)。

名古屋鉄道は1930年に名岐鉄道と改称するが、1935年の愛知電気鉄道との合併で再び名古屋鉄道となった。その際、形式番号はモ700形に改められる。その後、1941年に新名古屋駅(現名鉄名古屋駅)開業と同時に名古屋市電乗り入れも中止され、ポールはこの時撤去されている。旧名岐鉄道の主要路線の架線電圧が1948年に600Vから1500Vに昇圧されると、モ700形は各務原線へ転じた。

しかし同線も1964年に1500Vへ昇圧され、その際4両(707 - 710)が北陸鉄道へ譲渡され同社石川総線のモハ3700形に、福井鉄道へも2両(701・705)が譲渡され同社モハ140形(初代)となった。更に1両(706)が火災で焼失したため、3両(702 - 704)が広見線・小牧線へ転属し、1966年には全車が瀬戸線へと転じた。

1973年には瀬戸線の近代化(車両入替え)によって2両(703・704)が、1978年には残る1両(702)が同線の1500V昇圧により揖斐線・谷汲線へと再度転属する。その際、制御器・電動機・台車が交換され、後にモ750形と共に窓のアルミサッシ化など延命工事が施された。姉妹形式のモ750形ともどもAL車(間接自動制御)であるが、マスコンは手動加速も選択できるデッカー式であった。この頃、北陸鉄道・福井鉄道へ転じた車両は相次いで廃車となっている。

瀬戸線や揖斐線・谷汲線ではク2320形と組み合わされて使用されるなど、長らく主力車両であったが、1998年に後継車両モ780形が製造されたことで、片運転台で使用しにくかったこともあって廃車された。

揖斐・谷汲線転属後は後述のモ750形ともども黒野駅構内で検査を受けていたが、重検・全検の時は、市ノ坪の岐阜工場で行われていた。その際、軌道線の岐阜市内線を走行するが、鉄道線用の車両のためそのままでは走行できないので、車両正面に簡易排障器を取り付け路面電車としての条件を満たし、深夜に回送されていた。 なお、片運転台のモ700形は進行方向が逆になる田神線内はモ570形に牽引されていた。
モ750形
1928年にデセホ750形として、デセホ700形の増備のため751 - 758の8両が製造され、1929年にはさらに759・760の2両が増備された。

1932年に鉄道省高山本線との直通運転列車(→名鉄キハ8000系気動車・「たかやま」・「北アルプス」の記事も参照)が柳橋駅 - 下呂駅間で運転開始されると、モ750形2両(755・756)はお座敷車両に改造され、高山本線内では蒸気機関車に牽引されて運用についた。

モ700形同様の流れで、各務原線、広見線・小牧線、瀬戸線、揖斐線・谷汲線と運用線区を転々としながら使用されてきた。この間に753・757・760の3両が廃車されており、756が両運転台のまま電装解除されク2150形(2代)2151となったが、1978年に廃車されている。また、一部の車両は片運転台化されたが、揖斐線・谷汲線のワンマン運転開始時に両運転台に戻されている。

モ700形と違い単行で使用できることから、新型のモ780形投入後も揖斐線の黒野駅 - 本揖斐駅間と谷汲線が廃止される2001年まで、751・754・755の3両が使用された。

廃車後はモ751が元の緑色に塗り直され同県北方町のパン屋へ売却され、モ754はカットされ瀬戸線時代の緑色に塗り直した上愛知県瀬戸市の瀬戸蔵に、モ755が谷汲線の終着駅であった谷汲駅跡で保存されている。

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2009年03月08日

飲み物としてのコーヒー

飲み物としてのコーヒーは、直前にコーヒー豆から抽出して飲むレギュラーコーヒーと、レギュラーコーヒーから工業的に作られるもの(インスタントコーヒーや缶コーヒーなど)に大別できる。コーヒーの淹れ方や飲み方は地域によってさまざまであり、また個人の嗜好によっても大きく異なる。

淹れ方
焙煎されて粉砕されたコーヒーの粉は、湯または水に接触させることで中の成分を抽出し、我々が口にする飲み物としてのコーヒーが出来上がる。このときの抽出方法、すなわちコーヒーの淹れ方には様々な方法が存在する。コーヒー専用の抽出器具が多く考案されており、それぞれの淹れ方は用いる器具の名前で呼ばれることが多い。

コーヒーの風味は、焙煎の度合いや挽き加減(細かく、粗く等)、淹れ方や用いる器具などにより異なるが、それぞれの持ち味があるのに加えて本人の嗜好の問題であるため、万人が最善の方法だと言うものは存在しない。

濾過
ドリップ
ウォータードリップ (水出し)
専用の機材を用い水でコーヒーを抽出する方法。点滴のように少しずつ水を落として抽出するため、1杯辺り8時間程度を目安とする。抽出する器具もインテリアとして活用される。近年、安価な器具が登場し、一般の家庭でも楽しめるまでになっている。オランダ領時代のインドネシアで、ドリップ式では苦みが強く出てしまうロブスタ種のコーヒー豆を飲むために考案されたことからダッチコーヒーとも言う。現在ではアラビカ種の豆にも用いており、繊細な風味を活かすための方法である。
ペーパードリップ
日本で最も普及していると思われる淹れ方。ドリッパ(一種の漏斗)にフィルタ(漉し紙)をセットし、粉を入れ適量の湯を注ぎ、30秒程度蒸らした後に抽出を開始する。ドリッパの湯が完全に切れる前に外すと雑味の無いコーヒーとなる。
前述の手順さえ守れば誰でも一定水準のコーヒーが淹れられるのがこの方式の最大の利点である。
ペーパードリップの方法は、1908年にドイツ人女性メリタ・ベンツが考案した。
メリタ式(抽出穴1つ)とカリタ式(同3つ)が存在し、最適なメッシュ(挽き具合)が異なるとされている。一般的に、メリタの方が細挽きで抽出される。抽出法の違いは、メリタ式が杯数分の湯を全量フィルターに投入し滴下しきるのを待つのに対し、カリタ式は湯を投入し続け、フィルタの下のデカンタに杯数分滴下した段階でフィルタをはずし、フィルタ内の抽出中の湯(コーヒー)は廃棄する。従って、カリタの方が経験を要し、味のぶれる要素は大きいとも言える。
サイフォン社のコーノ式やハリオ社の製品等で「円錐ドリップ」と呼ばれるものが普及しつつある、これはペーパーフィルターに折ったときにその形が円錐形になるものを用いそれを円錐形のドリッパーにセットして使用する、ペーパーをセットした際に円錐形のペーパーの先端がドリッパーの穴から少し飛び出すようになるのが特徴でこれにより抽出されたコーヒー液は直接ペーパーの先端部分から容器に落ちる、別名「一点抽出法」、よりネルドリップに近い抽出様式になるように考案されたもの、同じ粗さのコーヒー粉を用いた場合メリタ式やカリタ式よりも湯の透過速度が速い。
その他、ペーパーフィルターを用いた抽出法として松屋式やコーヒーバネット等のらせん状の金属の枠にペーパーをセットして抽出する方法や、一旦必要量の湯とコーヒー粉を容器で混合し、浮いてくる灰汁をすくって取り除いた後に数分置き、それをペーパーで濾して飲むという浸漬式との組み合わせのような方法も存在する。
コーヒーメーカーがもっとも多く採用している淹れ方でもある。
ネルドリップ
フィルタとして布(綿フランネル)を使用する抽出法。布と紙の材質の違いからペーパードリップよりもコーヒーに含まれる油分がより抽出されるのでペーパーでの抽出に比べてまろやかでボディ感のある味となる傾向があり、またペーパードリップのように紙の影響を受けない。味と香りは、抽出方法に大きく左右される。基本的にはドリッパーを使用しないためにドリッパーが温められることによりある程度抽出液の温度が保たれるペーパー式に比べ抽出時に抽出液の温度が下がりやすい。
ネルの取り扱いには注意を要する。使用後のネルはコーヒーの油膜の酸化を避けるため、直ちに洗浄し、冷水に浸けて保存する。臭いが移るのを避けるため、洗浄の際は洗剤の類を使用しない。新品のネルは抽出済みのコーヒー粉を入れた湯で煮沸し、洗浄後に使用する。
エスプレッソマシン/マキネッタ
高温、高圧をもって一気に抽出するエスプレッソマシンと、飽和水蒸気を使用する直火式のマキネッタがある。
マルトース テノール ショート セント エピロ フリンジ デネボラ ジャケツ モモアク ラウンド ドナー シニフィ きたひろ パンフォス デポ最新 ライス バラスト ワンレン ジュニ キメラ マスド ギブス スカブラ アーティ マーメイド ミサリー リンガイ マザー メーソン ウショウ ダイス ピンナップ ノック ランボ ノッポ プロフ あめだ スクラム インタ ヒップ スタイル シャベル ミール スポンジ ハティ アイホール リナム ハッスル サタン アフロ

煮沸後濾過
コーヒーサイフォン
サーバと漏斗から構成され、漏斗部にネル又はペーパーフィルタをセットし、粉を入れる。サーバ部に水をいれ、加熱し、湯が漏斗部に上がったら頃合いを見計らって火から下ろす。
最近、アルコールランプやガスコンロ等を使用する直火式以外に電熱式も普及しつつある。
パーコレータ
コーヒー粉の入った籠状部分に湯を循環させ、抽出する。機材の構造が単純であるため、メンテナンスは非常に容易でキャンプ等で用いられるが、美味しく抽出するのには熟練を要する。

煮沸
ジェズヴェ/イブリック(トルココーヒー)
ひしゃくのような形をした柄の深い小鍋に、深煎り細引きの粉と水、砂糖を入れ直火にかける。かき混ぜながら煮沸し、煮立つ直前に火から離し落ち着いたら再度火にかける。これを2,3回繰り返し、表面の泡を消さないようにカップに注ぐ。
まず泡の味を楽しみ、粉の沈殿後に上澄みのみを飲用する。カップの底に粉が残ることから、この模様で運勢を占う「コーヒー占い」という習慣もある。
ボイル
単純な煮沸法。粉と水を鍋に入れて煮沸して抽出し、上澄みだけを飲む。北欧やギリシャで見られる淹れ方で、トルココーヒーに由来する淹れ方だと考えられる。

2009年02月20日

星のカービィ ウルトラスーパーデラックス

いろいろな作品(モード)が入った、オムニバス形式のゲームであり、 ゲームモードはSFC版から存在
た全てのモードと全てのサブゲームに加えて、本作オリジナルの新しいゲームモードが4つ追加されており、タッチスクリーンで遊べる新しいサブゲームも3つ追加され、ゲームモードは全11種類とサブゲームが全5種類収録されている。また、オープニング・エンディングを含めた全てのイベントシーンは、3DCGを用いたムービーによって展開される。SFC版のイベントムービーはある条件を満たすと見ることが出来る。前作のような2人同時プレイは、DSカード2枚で可能になっており、1Pはカービィ、2Pはヘルパーになる。グラフィックは『星のカービィ 参上!ドロッチェ団』をベースに新しく作り直して、SFC版のように見やすいサイズに変更し、スーパーデラックスのみに登場したキャラクターは全面的に新しく作り直し、ステージもより綺麗になって向上している。BGMとSEは一部のアレンジを除きSFC版を忠実に再現した形であり、DS版ならではの新規BGMやSEも収録されている。スーパーデラックスの敵の配置など大まかな部分は忠実に再現されているが、コピー能力の威力や難易度などの再調整は行われている。

はるかぜとともに
難易度:★  (Spring Breeze)
スキミン ソーター ブロッキ レニア ツーリング ナスカ イジェクト ビッグ カット 管弦楽団 ユース イブ日本 バンコ ゾーニング フルスピ モンテ サクラ キット モメンタム スラング 波間 ヒロポン ハシソウ プレース ジャル めんだ トラベラ パロディ タイプ オーバー ウィグ パキラ そらち ダラー シロッコ バーベナ ダーク フリー スーツ マウス ネクタ ネチズ ヨット バリ デリン ブルーデー フェルト イーブン ブライ にしままい

最初からプレイできる。主にカービィに慣れるように作ってあるので難易度は低め。尚、このモードのタイトル画面には『星のカービィ』のそれと同じBGMのアレンジ版が使用されている。
2人ではるかぜ
DSダウンロードによる2人プレイモード。通常はDS本体とソフトが人数分だけないと2人同時プレイができないが、このモードのみソフトを持っていない人でもヘルパーとなって一緒にプレイできる。ただし2PのDSにはゲーム画面が表示されないため、2Pは1PのDSゲーム画面を覗き込みながらプレイすることとなる。

ステージ
LEVEL1 GREEN GREENS(グリーングリーンズ)
草木のステージ。中ボスはポピーブロスSr.。ボスはウィスピーウッズ。

LEVEL2 FLOAT ISLANDS(フロートアイランズ)
南国のステージ。中ボスはMr.フロスティ。ボスはロロロ&ラララ。

LEVEL3 BUBBLY CLOUDS(バブリークラウズ)
天空のステージ。中ボスはクラッコJr.、ボンカース(隠し扉の中)。ボスはクラッコ。

LEVEL4 Mt.DEDEDE(マウント デデデ)
デデデ城がそびえ立つ山。扉に入るといきなりデデデ大王との対決になる。

白き翼ダイナブレイド
難易度:★★★ (Dyna Blade)

SFC版と違って、最初からプレイできない。「はるかぜとともに」のステージ1をクリアすると遊べるようになる。又、ダイナブレイド戦の音楽が「カービィのエアライド」のダイナブレイド登場イベントの編曲版となっている。

[編集] ステージ
STAGE1 ピーナツ平野
 平野のステージ、レベルは比較的簡単。

STAGE2 マシュマロ城
 お城のステージ、隠しスイッチあり。

STAGE3 ココア洞窟
 洞窟のステージ

STAGE4 キャンディ山
 山のステージ、隠しスイッチあり。最後は中ボスの3連戦

STAGE5 ダイナブレイドの巣
 ダイナブレイドとの戦闘。

激突! グルメレース
難易度:★★ (Gourmet Race)

SFC版と違って、最初からプレイできない。「はるかぜとともに」のステージ1をクリアすると遊べるようになる。
新しく対戦モードが追加され、DSワイヤレスプレイで2人対戦が可能になっている。2Pで操作するのは黄色カービィ(キービィ)になっている。
また、タイムアタックモードで現れるゴーストは「ドロッチェ団」のゴーストカービィとなっている。

ステージ
1 かぼちゃグランド
背景の色が変わっている。

2 もろこしホール
ここだけは音楽が違う。地形が複雑で、凸凹が多い。

3 たまねぎガーデン
コピー能力のテクニック性が重要になる。

洞窟大作戦
難易度:★★★★ (The Great Cave Off)

「はるかぜとともに」のステージ1をクリアすると遊べるようになる。
ゲットできる宝の種類が若干だが変わっている。「はる・なつ・あき・ふゆのおもいで」は「しきのおもいで」に統合され、「リーのヌンチャク」、「ふはつだん」などが削除。代わりに、「マシンのパーツ」(『エアライド』よりマシン「ハイドラ」のパーツ)、「まほうのえふで」(『タッチ!カービィ』)、「けいたいつうしんき」(『鏡の大迷宮』)、「みつぼしのつえ」(『参上!ドロッチェ団』のトリプルスター)、「きんのジョウロ」(『どうぶつの森』シリーズ)など、主にスーパーデラックス以降新たに登場したゲームからのアイテムが追加とされている。
因みに、セーブポイントに乗るとSFC版では奥にマキシムトマトが落ちてきたが、今作では乗るだけで体力を全快できるようになった。
下画面に現在地の分かるマップが表示されるようになり、各エリアの宝を全て入手すると目印が付くようになり、コンプリートしやすくなった。

ステージ
入口
扉↓
1 地底の木々
難しくなく、中ボスのボンカースは穴に落として瞬殺できる。お宝の数13。ボスはファッティーホエール。

↑トロッコ↓
2 水晶の畑
すべてのお宝をとるには水中操作のテクが重要になってくる。お宝の数16。ボスはバトルウィンドウズ(スライム・おどりにんぎょう・まほうつかい)。

↑トロッコ↓
3 古代の塔
マップ同士のつながりが複雑なため、4つのエリアの中で最難関とも呼ばれるエリア。塔を降りて左の扉に入れば、通過することが出来る。お宝の数16。ボスはガメレオアーム。

↑トロッコ↓
4 神秘の楽園
コピー能力を駆使することになる。最高額の値打ち(99万G)を誇る「めいとうサムライ」は取るのには非常に高いテクニックを要する。お宝の数15。ボスは魔人ワムバムロック。

トロッコ↓
入口
入ってきた場所から脱出。構造はスタート地点と同じだが、ここから地底の木々へは戻れない。

タナイトの逆襲
難易度:★★★★ (Revenge of Meta Knight)

SFC版と違い、DS版では「白き翼ダイナブレイド」に加えて「激突! グルメレース」をクリアして「洞窟大作戦」の最初のセーブポイントまで進めてセーブすると遊べるようになる。メタナイト達の会話の内容が微妙に変わっている箇所があり、鳥の姿をした艦長の名前が「バル」であることが判明した。また、空中戦艦ハルバードのデザインが『スマブラX』のモチーフになっている。下画面には現在のハルバードの損傷状況が表示される。

ステージ
CHAPTER1 後部甲板?ロケットノズル前
発進前の戦艦ハルバードに潜入する。ボスはヘビーロブスターだが、倒す必要はないうえ、戦っている内にハルバードが発進してカービィは吹き飛ばされる。(但し「メタナイトでゴーDX」では倒し必要。)制限時間3000。

CHAPTER2 海?海底洞穴?離島
近くの海岸へ飛ばされる。ボスはウィスピーウッズとツインウッズ。制限時間5000。

CHAPTER3 森?山
ハルバードを追ってうっそうとした森に入る。ボスは無し。 制限時間6500。

CHAPTER4 甲板?戦艦内部?主砲前
ダイナブレイドの助けを得て再びハルバードに乗り込む。バル艦長の臍繰り部屋がある。ボスは二連主砲。 制限時間6000。

CHAPTER5 甲板?戦艦側部?右ウィング?ダクト?左ウィング近辺
ダクトから内部に侵入する。ボスの前の部屋の隠し扉に武器貯蔵庫がある。ボスはヘビーロブスター。 制限時間は戦艦側部7000、ダクト以降は5000。

CHAPTER6 戦艦側面?戦艦底部?戦艦内部中央付近?リアクター
ハルバード核心部へと突き進む。ここにメイスナイトが臍繰りを隠していた。ボスはリアクター。制限時間7000。

CHAPTER7 戦艦内部後方付近?ブリッジ?展望台
メタナイツとの戦いをへて、メタナイトとの直接対決となる。 制限時間3000。

CHAPTER8 後部甲板
爆発寸前のハルバードからウィリーライダーで脱出する。メタナイトが飛行モードに変化して追ってくる。制限時間44。

銀河にねがいを
難易度:★★★★★ (Milky Way Wishes)

上記5つのゲームを全てクリアすると遊べるようになる。
ステージ中で入手したコピーのもとデラックスのコピー能力の切り替えは下画面をタッチすることでSFC版より簡単に切り替えやすくなった。また、夢の泉のデザインが『スマブラDX』のモチーフになっている。

ステージ
草花の星 フロリア(Floria)
四季が存在し、扉に入ることでそれを切り替えて進む。ボスはツインウッズ。アイス、ファイター、カッターが手に入る。

水の星 アクアリス(Aqualiss)
大部分がきれいな水で覆われている。ボスはファッティホエール。 パラソル、ビーム、ソードが手に入る。

大空の星 スカイハイ(Skyhigh)
陸地が確認できず、雲をわたって進む。後半部は迷宮のような造りになっている。ボスはクラッコ。ジェット、ホイール、ウィングが手に入る。

灼熱の星 ホットビート(Hotbeat)
表面温度が非常に高く、溶岩が煮えたぎっている。ボスはガメレオアーム。ファイア、スープレックスが手に入る。

洞穴の星 ケビオス(Cavios)
広い洞窟の中を進む。入り組んだ造りになっており、道に迷いやすい。ボスは魔人ワムバムロック。ボム、ハンマー、ストーンが手に入る。

機械の星 メックアイ(Mecheye)
大地のほとんどが機械化されている。ボスはヘビーロブスター。ヨーヨー、プラズマが手に入る。

常夜の星 ハーフムーン(Halfmoon)
星の半分しか光が当たらない。地形は密林だったり星屑だったりとまちまちである。ボスはバトルウインドウズ(まほうつかい・あくまのきし・グランドドラゴン)。 ミラー、ニンジャが手に入る。

ギャラクティック・ノヴァ
他のステージとは異なり、スターシップに搭乗しての強制横スクロールシューティングとなる。ボスはギャラクティック・ノヴァの核とマルク。

???
背景に溶け込むように隠れた星(点滅しているため、SFC版に比べると見つけやすい)。地形は単調で、コピー能力を盗む敵・タックがたくさんいる。コピーが手に入る。


2009年02月04日

藤堂氏(とうどうし)は日本の氏族

藤堂氏(とうどうし)は日本の氏族。 近江国犬上郡藤堂村が発祥。出自については諸説ある。
スイート ビジブル 神の蔵 梅最適 ノマド 天空の城 ほない スポー メセナ ノーブル ルピア レシピ ビーエル ナビサド インテーク オーバー ベックス イッシュー ムラグ おのいして ガーベラ バターケ ピッチ リアフレ デルレイ ソシオ ひるぜん ストロ ビジョナリー ミブーツ デポジット フレッ シンフ マザー ウルク たつごう キヨス モルツ トゼブラ シェルタ マホメ ふたみ せっさ マヌカン レクチン クロヨン プラグ ナッシ トーチ リョウ

中原姓とする説
宇多源氏佐々木氏族とする説
平姓とする説
藤原氏とする説
などさまざまである。

戦国時代の当主藤堂高虎は、浅井氏・阿閉氏・磯野氏・織田氏・豊臣氏・徳川氏と主を次々と乗り換え、最後は伊勢国津藩三十万石を手に入れる事に成功している。

幕末
俗説では、幕末に鳥羽・伏見の戦いが起こった際、当主藤堂高猷は真っ先に幕府方から官軍に寝返って幕府方に砲撃を加えており、「津藩は藩祖の教えがよく受け継がれている」と周りを呆れさせたと言われている。

元々、公武合体論を唱えていた藤堂氏が、幕府老中稲葉正邦が幕府を見限り中立の立場を採ったのを見ており、さらに「官軍につけ」、との勅使を受けた現場の長・藤堂采女が独断で官軍に寝返って幕府方に砲撃を加えたのが真相であるともいう。

藤堂高虎の小説を書いた羽生道英は、この裏切り事件が誤解されたことから藤堂高虎まで評価が低くなり、不当な歴史的評価を受けていると述べている(羽生『藤堂高虎』PHP文庫,2005)。

系譜
凡例 太線は実子、細線は養子。  数字は歴代当主


     虎高
 ┏━━━╋━━━┳━━━━━━━━━━━┳━━━┓
 女   高則  高虎1          高清  正高
 ┃       ┣━━━┳─────┐    ┃   ┃
高刑      高次2  高重  高吉  高秀  賢政(浅井吉政の養子)
 ┏━━━┳━━━╋━━━┓(名張藤堂家)┃
高久3  高通  高堅  高睦4      高明
     ┃   ┃       ┏━━━┫
     高敏5  高陳      高治6  高武
                 ┃   ┣━━━┳━━━┓
                 高般  高朗7  高雅  高周
         ┏━━━┳━━━┳━━━┫       ┣━━━┓
         高嶷9  高朶  高悠8  高興      高衡  高矗
     ┏━━━╋━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓
     高崧  高兌10 高邁 木下利徳 高秭   女━┳━藤堂長敦(藤堂高吉の末裔)
         ┃                 ┃
         高猷11               長徳
         ┃                 ┃
         高潔12               

藤堂 高虎(とうどう たかとら)は、戦国時代から安土桃山時代、江戸時代前期にかけての武将・大名。伊予今治藩主。後に伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。

何度も主君を変えた戦国武将として知られる。それは彼自身の「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という発言に表れている。

築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などを築城した。高虎の築城は石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴があり、同じ築城の名手でも石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。

弘治2年(1556年)1月6日、近江犬上郡藤堂村(現・滋賀県犬上郡甲良町在士)の土豪・藤堂虎高の次男として生まれる(長兄高則は早世)。藤堂氏は先祖代々、領主であったが、戦国時代にあって次第に没落し高虎が生まれた頃には一農民となっていた。幼名を与吉と名乗った。

はじめ近江の戦国大名・浅井長政の家臣として仕え、元亀元年(1570年)の姉川の戦いに参戦して武功を挙げ、長政から感状を受ける。天正元年(1573年)に浅井氏が織田信長によって滅ぼされると、浅井氏の旧臣だった阿閉貞征、次いで同じく浅井氏旧臣の磯野員昌の家臣として仕えた。

織田・羽柴(豊臣)時代
やがて近江を去り、信長の甥・織田信澄の家臣として仕えるも長続きせず、天正4年(1576年)に羽柴秀長(豊臣秀長)に仕えて3000石の所領を与えられた。秀長のもとでは中国征伐、賤ヶ岳の戦いなどに従軍する。賤ヶ岳の戦いで抜群の戦功を挙げたため、2,000石を加増された。のちに秀吉から5,000石をさらに加増され、1万石の大名となる。

天正13年(1585年)の紀伊雑賀攻めにも従軍し、このとき秀吉の命令で雑賀党の首領であった鈴木重意を謀略で自害に追い込んだと言われる。天正15年(1587年)の九州征伐では根白坂の戦いで島津軍に攻められた味方を救援する活躍を見せて2万石に加増される。この頃、秀吉の推挙を受けて正五位下佐渡守に叙任する。

天正19年(1591年)に秀長が死去すると、養子の豊臣秀保に仕え、秀保の代理として翌年の文禄の役に出征している。文禄4年(1595年)に秀保が早世したため、出家して高野山に上るも、その将才を惜しんだ豊臣秀吉が召還したため還俗し、5万石を加増されて伊予板島(現在の宇和島)7万石の大名となる。このとき、秀吉から日本丸という軍艦を拝領したとされる。

慶長2年(1597年)からの慶長の役にも水軍を率いて参加し、漆川梁海戦では朝鮮水軍の武将・元均率いる水軍を殲滅するという武功を挙げ、帰国後に加増されて8万石となる。この時期に板島丸串城の大規模な改修を行い、完成後に宇和島城に改称している。

関ヶ原
慶長3年(1598年)8月、秀吉死去直前より、徳川家康に急接近する。そして豊臣氏の家臣団が武断派、文治派に分裂すると、高虎は武断派の諸将に先んじて徳川家康側に与した。

慶長5年(1600年)、上杉景勝が家康に対して挙兵すると、家康による会津征伐に軍勢を率いて従軍する。そして石田三成ら西軍が挙兵すると、高虎は家康の東軍に従って織田秀信が守る岐阜城攻めに参戦し、9月15日の関ヶ原本戦にも参加、大谷吉継隊と死闘を演じた。戦後、脇坂安治、小川祐忠、朽木元綱、赤座直保らの調略にも貢献したことにより家康から伊予今治20万石に加増移封されている。

江戸時代
その後、高虎は徳川家の重臣として仕え、江戸城改築などにも功を挙げたため、慶長13年(1608年)に伊賀一国、並びに伊勢8郡22万石に加増移封され、伊勢津藩主となる。家康は高虎の才と忠義を高く評価し、外様大名でありながら譜代大名格(別格譜代)として重用した。

慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣では徳川方として参加する。翌年の大坂夏の陣でも徳川方として参戦し、自ら河内方面の先鋒を志願して、八尾において豊臣方の長宗我部盛親隊と戦う(八尾の戦い)。この戦いでは長宗我部軍の猛攻にあって、藤堂良勝や藤堂高刑をはじめ、600人余りの死傷者を出している。戦後、その功績により32万石に加増され、同年閏6月には従四位下に昇任した。

家康死去の際には枕元に侍ることを許された。家康没後は秀忠に仕え、元和6年(1620年)、徳川家康の孫である和子が入内する際には自ら志願して露払い役を務め、宮中の和子入内反対派公家の前で「和子姫が入内できなかった場合は責任をとり御所で切腹する」と言い放ち、強引な手段で押し切ったという。

晩年には眼病を患って失明している。寛永7年(1630年)10月5日に死去。享年75。後を長男の高次が継いだ。

人物
6尺2寸(約190センチメートル)を誇る大男だったと言われている。
高虎は何人も主君を変えたことから、変節漢あるいは走狗といわれ、歴史小説などでは否定的に描かれる傾向が多い。しかし、江戸時代に儒教の教えが武士に浸透する以前の日本では、家臣は自分の働きに見合った恩賞を与え、かつ将来性のある主君を自ら選ぶのが当たり前であり、何度も主君を変えるのは不忠でも卑しい事でもなかった(高虎も当時としては当然の行動をしただけであるが、同輩からの大名に出世した嫉妬と、外様でありながら家康の覚えが良い事を嫌う徳川譜代との確執が背景にあると思われる)。
慶長の役において加藤嘉明と功を競い、終生仲が良くなかった。高虎の領地が今治藩、嘉明のそれが伊予松山藩と隣接していたことも事情にあるとされる。
武勇だけではなく、津藩の藩政の基礎を築き上げた内政手腕のほか、文学や能楽、茶の湯を嗜む文化人でもあった。
「常に死を覚悟していれば、心は動じない」の言葉を残す。
関ヶ原の合戦では大谷吉継、大坂夏の陣では長宗我部盛親隊という常に相手方の特に士気の高い主力と激突している。関ヶ原以降、徳川軍の先鋒は譜代は井伊、外様は藤堂というのが例となった。
城郭建築の名人として知られ(三大築城名人の一人といわれる)、慶長の役では順天倭城築城の指揮をとった。この城は明・朝鮮軍による陸海からの攻撃を受けた。しかし全く敵を寄せ付けず撃退に成功し、城の堅固さが実戦で証明された。また層塔式天守築造を創始し伊賀上野城や丹波亀山城などを築いた。

逸話
講談、浪曲「藤堂高虎、出世の白餅」では、阿閉氏の元を出奔し浪人生活を送っていた若き日の藤堂高虎(当時、与右衛門)が三河国吉田宿(現・豊橋市)の吉田屋という餅屋で三河餅を無銭飲食するが、主の吉田屋彦兵衛に故郷に帰って親孝行するようにと諭され路銀まで与えられる。吉田屋の細君もたまたま近江の出であったという。後日、大名として出世した高虎が参勤交代の折に立ち寄り、餅代を返すという人情話が伝えられている。ちなみに高虎の旗指物は「三つ餅」。白餅は、「城持ち」にひっかけられているともいう。
あるとき2人の家臣(遊女好きの家臣と博打打ち好きの家臣)が喧嘩を起こして、それを高虎自らが裁いた。このとき高虎は遊女好きの家臣を追放し、博打打ち好きの家臣はまだ見込みがあるとして家中に置いたという。博打打ちなら計算高いであろうということかららしい。

実力主義者
高虎は、いわゆる実力主義者であった。取り立てて血筋がよかったわけでもない。にも関わらず、彼は己の実力だけで生き抜いてきた。織田信澄に仕えていたときにも大いに功績を挙げたが、信澄は高虎を嫌って加増しようとしなかった。そのため、高虎は知行を捨てて浪人し、羽柴秀長のもとで仕えたと言われている。
秀吉の死後、豊臣氏恩顧の大名でありながら、いち早く徳川家康に接近したことは、多くの諸大名から咎められた。確かに忠義を重んじる武士の士風においては決して賞賛されるべきことではない。それに対し、史書に伝えられる高虎の言葉は「己の立場を明確にできない者こそ、いざというときに一番頼りにならない」。高虎は豊臣秀長に仕えていた時分には忠実な家臣であり、四国征伐の時には秀長に従って多大な功績を立てている。また秀長が亡くなるまで忠節を尽くしている。
家康は大坂夏の陣で功を挙げた高虎を賞賛し、「国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ」と述べたと言われている。徳川家臣の多くは主君をたびたび変えた高虎をあまり好いていなかったらしいが、家康はその実力を認めていたようである。大坂夏の陣で高虎がとった捨て身の忠誠心を認め、晩年は家康は高虎に信頼を寄せたようである。臨終の席では外様では高虎のみ枕元に侍ることを許された。
ただし、幕末の鳥羽・伏見の戦いで幕府軍劣勢と察し、真っ先に官軍に寝返って、幕府側に砲撃を開始したのは藤堂家であったため、幕府軍側では「さすが藩祖の薫陶著しいことじゃ」と皮肉ったという。だが一方、寝返った藤堂家は、官軍の日光東照宮に対する攻撃命令は「藩祖が賜った大恩がある」として拒否している。
本領の津藩のほかに幕府の命で、息女の輿入れ先である会津藩蒲生家と高松藩生駒家、さらには加藤清正死後の熊本藩の執政を務めて家臣団の対立を調停し、都合160万石余りを統治した。これらの大名家は、高虎の存在でかろうじて家名を保ったと言え、彼の死後はことごとく改易されている。

2009年01月21日

饗百濟使人大佐平智積等於朝

『日本書紀』の皇極天皇元年(642年)7月12日 (旧暦)「乙亥 饗百濟使人大佐平智積等於朝 或本云 百濟使人大佐平智積及兒達率 闕名 恩率軍善乃命健兒相撲於翹岐前」にあるとおり百済の王族の使者をもてなすため、健児(こんでい・ちからひと)に相撲を取らせたことが書かれている。
『古事記』『日本書紀』以外にも『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』『類聚国史』『日本紀略』『小右記』『中右記』等にも、相撲の記述が見られる。

奈良・平安時代
『萬葉集』の五巻に、天平2年(730年)4月6日と、次の年(731年)の6月17日に相撲をしたという記録がある。
聖武天皇(在位724年 - 749年)は勅令をもって、全国各地の農村から相撲人をなかば強制的に募集した。毎年7月7日の七夕の儀式に、宮中紫宸殿の庭で相撲を観賞したのである。こうした宮中における相撲の披露は、「天覧相撲」と称された。
平安時代になると、相撲がすでに宮中の重要な儀式となった。毎年、定期的に「三度節」の一つとして「相撲節会」が行われた。相撲節会の儀式は、すなわち中国唐代の儀式をまねたものであった。三度節には、「射礼」と「騎射」、「相撲」の三つの内容があった。その規模は壮大で、豪華絢爛な催しであったとされる。
宮中で行われた相撲節会のほかには、民間の相撲も大いに行われていた。一般の庶民による相撲は「土地相撲」、または「草相撲」と呼ばれていた。一方、「武家相撲」は武士たちの組み打ちの鍛錬であり、また心身を鍛える武道でもあった。やがて実戦用の武術となった。また「神事相撲」は、農作物の豊凶を占い、五穀豊穣を祈り、神々の加護に感謝するための農耕儀礼であった。宮廷相撲であり、民間の相撲である。武家相撲であり、庶民の相撲であるが、とりわけ「相撲節会」は、古代中国の宮廷で行われた角力が遣隋使・遣唐使の歴史以前にも往来があり、来渤海使も何度も日本へ赴いたなかで影響も推測される。
『今昔物語集』などの当時の説話には、相撲節会におもむく全国各地の力士たちにまつわるエピソードが紹介されている。
鎌倉時代には、源頼朝が相撲を奨励した。御家人では畠山重忠が相撲の強者であったと伝えられる。曾我兄弟の仇討ちも、この頃に起きている。

また、和田常盛・朝比奈義秀兄弟が奥州馬を巡って、相撲で競った逸話がある。

室町時代以前には着衣で相撲を楽しむ庶民の絵などがあり遊戯としては土俵も無く着衣で行なわれていた。

戦国時代には、織田信長が相撲を奨励した。また、信長は土俵の原型の考案者とされる。

戦国・安土桃山・江戸時代以降
江戸時代から、職業としての大相撲が始まる。また座頭相撲とそこから派生した女相撲の興行も存在し戦前まで存続した。

昭和11年6月相撲は尋常小学校の正課授業となった。

昭和後期にはアマチュアの女子相撲(新相撲)が行われ「日本新相撲連盟」という組織が存在する。

相撲は神事としての性格が欠かせない。古くは大陸系から渡来した葬送儀礼としての相撲と、東南アジアから伝来した豊穣儀礼としての相撲があったと考えられるが、その性格は今となっては混在しているので区別は付けにくい。
ピンク バター 天使ノタ マルチ 華の段 メロン カーリング ゲットー バイオガス ハンカチ ハンドマ チューリン バナナ レパシー サープラ ロザリ キンリー ウエス シェリフ アンソ チェロ さらくやし ピーエル ギング モノキ トリポ ラップカ ハイデ 枸橘 高麗人参 リベラル ワイル ブレーキ ちょうせき トレーダー カモミー アージュ リム いっきく おのえ フィナーレ ゴニウム ノギス ソフト スポイル マベパール ラクトース きわの マフィン ングイン

祭の際には、天下泰平・子孫繁栄・五穀豊穣・大漁等を願い、相撲を行なう神社も多い。そこでは、占いとしての意味も持つ場合もあり、二者のどちらが勝つかにより、五穀豊穣や豊漁を占う。そのため、勝負の多くは1勝1敗で決着するようになっており、また、和歌山県、愛媛県大三島のひとりすもうの神事を行っている神社では稲の霊と相撲し霊が勝つと豊作となるため常に負けるものなどもある。場合によっては、不作、不漁のおそれがある土地の力士に対しては、あえて勝ちを譲ることもあった。また、土中の邪気を払う意味の儀礼である四股は重視され、神事相撲の多くではこの所作が重要視されている。陰陽道や神道の影響も受けて、所作は様式化されていった。

神事相撲の一例
唐戸山神事相撲:石川県羽咋市 羽咋神社
延方相撲:茨城県潮来市延方 鹿嶋吉田神社
琴平相撲:茨城県北相馬郡利根町布川 琴平神社