武士の起源については、従来は新興地方領主層が自衛の必要から武装した面を重視する説が主流であったが、近年は清和源氏や桓武平氏のような軍事貴族や下級官人層から構成される戦士身分が起源であり、彼らが平安後期の荘園公領制成立期から荘園領主や国衙と結びついて所領経営者として発展していったとみる説が提唱されている。
平安時代、朝廷の地方支配が筆頭国司である受領に権力を集中する体制に移行すると、受領の収奪に対する富豪百姓層の武装襲撃が頻発するようになった。当初は受領たちは東北制圧戦争に伴って各地に捕囚として抑留された蝦夷集団、すなわち俘囚を騎馬襲撃戦を得意とする私兵として鎮圧に当たった。しかし俘囚と在地社会の軋轢が激しくなると彼らは東北に帰還させられたと考えられている。
それに替わって、俘囚を私兵として治安維持活動の実戦に参加したことのある受領経験者やその子弟で、中央の出世コースからはずれ、受領になりうる諸大夫層からも転落した者達が、地域紛争の鎮圧に登用された。おりしも宇多天皇、醍醐天皇が菅原道真や藤原時平らを登用して行った国政改革により全国的な騒乱状況が生じていた。彼らは諸大夫層への復帰を賭け、蝦夷の戦術に改良を施して、大鎧と毛抜型太刀を身につけ長弓を操るエリート騎馬戦士として活躍し、最初の武芸の家としての公認を受けた。
藤原秀郷、平高望、源経基らがこの第一世代の武士と考えられ、彼らは在地において従来の富豪百姓層(田堵負名)と同様に大規模な公田請作を国衙と契約することで武人としての経済基盤を与えられた。しかし勲功への処遇の不満や、国衙側が彼等の新興の武人としての誇りを踏みにじるような徴税収奪に走ったり、彼らが武人としての自負から地域紛争に介入したときの対応を誤ったりしたことをきっかけに起きたのが、藤原純友や平高望の孫の平将門らによる反乱、承平天慶の乱であった。
この反乱は朝廷の勲功認定を目的に全国から集結した武士たちによって鎮圧され、武芸の家、すなわち、武士として公認された家系は、承平天慶勲功者の子孫ということになり、「武」が貴族の家としての「家業」となり、武家としての清和源氏や桓武平氏、秀郷流藤原氏もこの時に確定した。
この時点ではまだ武士の経済基盤は公田請作経営で所領経営者ではなかった。しかし11世紀半ばに荘園の一円化が進み、諸国の荘園公領間で武力紛争が頻発するようになると、荘園及び公領である郡、郷、保の徴税、警察、裁判責任者としての荘園の荘官(荘司)や公領の郡司、郷司、保司に軍事紛争に対応できる武士が任命されることが多くなり、これらを領地とする所領経営者としての武士が成立したのである。
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